大都会から離れた津軽にははっきりとした四季があった

    地吹雪が津軽三味線の音律に聞こえる

    開放感あふれるの舞台。

    躍動感いっぱいのり。

     紅葉で燃えるような弘前城庭園。

      見知らぬ人と話題が弾む掛け流し温泉
          

津軽紀行01



                     

2016.12.20〜 


  津 軽 紀 行
     Japan's Tsugaru




2017.5.1改


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禁転載


J弘前市内



 穏やかな休日、近郊を散策してみた。市内には古く美しい建物が数多く保存されている。明治40年に建てられた、元寺町の双塔フランスゴシック様式の弘前キリスト教会はノートルダム大聖堂に似ている。東奥義塾の塾長だった初代牧師・本多庸一や英語教師ジョン・イングらにより設立され、東北地方でプロテスタントの最も古い教会である。

 百石町の尖塔のあるロマネスク様式のカトリック教会。アムステルダムにある聖トマス教会から譲り受けた祭壇はゴシック様式で、内部のステンドグラスが美しい。

 中央弘前駅そばの聖天教会。大正9年に設立され、イギリス積みの赤れんが造り。内部はアーチを描く梁と共に色彩豊かである。19世紀末のアメリカ製リードオルガンが現役で使用されている。

 明治12年に設立された、旧国立五十九銀行の青森銀行記念館は親方町にあり、ルネッサンス調の洋風建築で白い外壁と頂上の装飾塔が美しい。

 市内を散歩していて気づくことは、あちこちに町名の由来を記した標柱が建てられていることだ。アパートの向かいが元寺町、築城当時は寺院街だったが、慶安年間に数ケ寺が焼失したのを機に現在の新寺町に移築されて、ここは商人街に代わった。百石町、かつては侍町と呼ばれていた。いつも利用していた青森銀行津軽支店はここ百石町にあり、その建物はゴシック様式の土蔵造りで屋号「角三」呉服店を譲り受けたもの。

 鷹匠町、弘前工業高校のある馬屋町の向かいに位置している。多くの鷹匠が居住したところ。慶長16年、城下町高岡(現在の弘前)が造られ、この地を鷹匠町と名付けてからは一度も町名を変更していない。

 新寺町、二代藩主信義が15カ寺の移築に着手。南溜池西方、現在の弘前高校のあたりに新寺院街を造った。

 亀甲町、兵法にいう城を守る四神のうち、北神・玄武(亀)にちなんで命名された。商家住宅「石場屋」はここにある。津軽地方の仏間は豪華な家が多いが、、ここ石場屋は喜びの時には仏間を隠すという。三枚襖には見事な六歌仙が書かれていた。また井桁崩しの欄間もなかなかのものである。




 大浦町、弘前中央高校の裏手にあり、藩祖為信が「津軽」と改姓する前の「大浦」にちなんでいる。築城当初は場内の一画にあった。幕政末期まではここに重臣たちが居住していた。
 この他、代官町、紺屋町、五十石町、元大工町、鞘師町、銅屋町、蔵人町、紙漉町、楮町など江戸時代からの地形や職人にちなんだ町名が多い。
 亀甲町近辺はアパートから東壕に沿って徒歩10分のところ。藩の御蔵を改造した津軽ねぷた村にある大太鼓の音を聞きながら左折すると、亀甲門(北門)が見えてくる。築城当時はこの門が追手門であったという。その門前に石場屋酒店がある。藩内のワラ工品と荒物を扱っていた商家だそうで、代々清兵衛さんと名乗っている。広い居間には囲炉裏が切ってあり、年配の女性が座っていた。この辺りには武家屋敷が三家屋あり、いずれも公開されている。旧伊東家は二百年前に建てられた藩医の居宅。旧岩田家、旧梅田家は江戸後期に建てられた中級武士の居宅である。見逃してはならないのが、ねぶた村の裏手にある「揚亀園」であろう。大石武学流の名園で書院造の茶室「揚亀庵」と併せて静かな佇まいに惚れて、弘前城の老松と岩木山を借景とした、庭園にしばし静寂を求めることもあった。浅野内匠頭と津軽信政は兵学者山鹿素行の門弟であり、江戸家老、大石内蔵助の従弟が津軽藩に住まいし播州赤穂家とは少なからぬ縁があったということを読んだ記憶がある。茶室の板の間に座ってあれこれ想像するのも、また楽しい思い出であった。
 亀甲門に入る堀には枯れた睡蓮が寂しげに寒風になびいていた。威厳がある一回り大きな門柱には古い矢傷があるというが良くは見えなかった。レクリエーション広場、北の郭を通って、三重三階でとち茸形銅板の鉄砲狭間をつけた丑寅櫓を経て、中央高校向かいの出入り口に出た。好きな散歩コースで、春の西濠散策とは違って、冬のこのコースもなかなかの趣があった。(『弘前市史』観光案内より)


新幹線YEAR 2017




津軽ごたく帳(陸奥新報 


 H市のA官庁Xン長H氏は、神経質と思われるほどの綺麗好き。窓際や窓枠を人差し指でこすってみては「ほこりがついているぞ」と女子社員にはっぱをかけるので、職員の中にはノイローゼ気味の人も出るとか。 去る大雪の日、H氏が「キミイー、K君を呼んでくれ」と女子社員に言いつけた。やがてK氏がX長室のドアをたたき、「お呼びですか」。「うん」と顔を上げたH氏、途端に「キミイー、頭の雪をホロゴってから入りたまえ」と怒鳴りつけた。するとK氏、ムッとした表情で言った。「X長、私の頭に雪はついていません」H氏がよく気を付けてみると、確かにそれは雪ではなく、K氏の白髪だった。

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ただ風が吹いているnomi J

 昭和30年前後まで、懐かしい職業が身近にあった。その筆頭は馬蹄屋さんだろう。千葉街道から行徳街道との交差点、旧八幡消防署の裏手にその仕事場はあった。づんぐりむっくりの農耕馬を繋いだ馬屋の向こう側では、真っ赤な火が燃え滾っていたのを覚えている。足裏に蹄鉄を打つ音、トンテンカンと硬音が響いていた。当時、宮久保から先は貝塚、高塚にかけて多くの田畑が広がっていた。牛馬は大切な労働力だった。それともう一つ中山競馬場の厩舎があったこととも関係しているのかもしれない。今では成田から鎌ケ谷、松戸市高塚、矢切を通り銀座、羽田を結ぶ北総線が市川・松戸境界の北総台地を貫いていて住宅が密集し、昔日の面影はない。
 馬蹄屋さんの斜め向かいには竹屋さんがあった。まっすぐ伸びた太い孟宗竹が立て掛けてあった。確か桶屋さんも近くにあったと思う。桶の中に銅の釜が入り込んでさめにくい風呂桶を作っていた。まさか都営地下鉄の駅ができるなど想像だにしなかった。
 永井荷風も大黒屋で食事した後、京成の踏切を越えて、この辺りも散策したかもしれない。



ちょっと余計な一言 

            愛情をもって子供を育てよう (元山口組顧問弁護士・BSより)





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  山菜採りに案内していただいたM新報のS常務とは、文字通りの裸の付き合い、よく飲み、よく唄 い、人生の機微を教えていただいた。
故人となられたS常務に心底より感謝したい。


後期高齢者の仲間入り。心身ともに健康でいられるように、ホームページに挑戦しています。



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