大都会から離れた津軽にははっきりとした四季があった

   地吹雪が津軽三味線の音律に聞こえる

    開放感あふれるの舞台。

    躍動感いっぱいのり。

     紅葉で燃えるような弘前城庭園。

      見知らぬ人と話題が弾む掛け流し温泉
          

津軽紀行01




                     


2016.12.20〜 


  津 軽 紀 行
     Japan's Tsugaru




2017.6.24改


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禁転載




 弘前ねぷた(再掲載)



 弘前ねぷたは先ず、大太鼓から始まる。

 じょっぱり太鼓、その音の迫力にはすさまじいものがある。鼓に跨った前後6人の叩き手が、長いバチをリズムに乗せて打ち付けると重低音の鼓動が腹に響く。「ヤーヤドー」の掛け声とともに手にした提燈が揺れる。ほのかな灯りに照らされた津軽娘が、豊かな乳房を晒で締め、純白の素股を大きく開いて大太鼓に跨り、上からバチを振り下ろしてドドンドドンドンドンとねぶた囃子を奏でている。なんとも麗艶で勇壮である。
 夏の夜空を焦がすねぷたの巡行には、大小合わせて50台前後が出陣する。ねぷたは各町内会、子供会、企業単位で運行され、前灯篭などに趣向を凝らし、正面の勇壮な鏡絵と裏側の妖麗な唐美人の見送り絵で躍動感あふれる美しさがある。

      弘前観光コンベンション協会

(yahoo)



 ラッセラーラッセラーの青森ねぶたが凱旋であるといわれるのに対して、表の鏡絵、裏の見送り絵、ねぷたは出陣を表現している。三国志や水滸伝に題材を得て油彩に富んだ津軽絵は内部の明かりに照らされて、極彩色を観客の目に放っている。ピーピーピッピッ吹き鳴らされる笛の音には、これから戦いに向かう勇者たちの悲壮感が漂っている。凱旋できるだろうか。愛しい人を再び抱くことができるだろうか。遠のいていく見送り絵は寂しげでもあり、一瞬の夏が駆け足で通り過ぎる雪国の祭りである。
 ねぷたの始まりは藩祖津軽為信が京都に滞在中、盂蘭盆会で都人に見せるために二間四方の大燈篭を出したのが始まりと言われている。享保7年、五代藩主信寿の時代に飾りのついた燈篭が出現、文化年間には小型の燈篭や山車をまねて人形などを担いで、現在の扇ねぷたの山車へと変転していったといわれる。ねぷたの語源は「眠り流し」が「ねぷたながし」になり、農作業の妨げとなるに向け、怠け心を流すことが由来と言われる。




 わたしが弘前滞在中に岩木町出身の八嶋龍仙師にお会いできた。豪壮で独創的な絵を下絵なしで描きあげる。対して端正な絵を描く三浦呑龍師の見送り絵は弘前を離れる直前に入手することができた。龍仙師、呑龍師共に市内出身の石沢龍峡師の門下生である。
 龍峡師は日本画家であると同時に、ねぷた絵を手掛け、流れるような筆遣いと、鮮やかな配色で人気を呼んだという。門下生には龍仙、呑龍、高橋翔龍など観客を圧倒する描き手を育てているという。
 今見られるような弘前ねぷたを確立した功労者の一人に竹森節堂がいる。戦後それまで「喧嘩ねぷた」と言われ、町内の人だけのものだった素朴なねぷた絵に、芸術性を求め、扇のバランスも良く、鑑賞に耐えるねぷた絵に高めていったといわれる。端正な線に特徴のあった竹森は弟子を取らなかったが、デッサンに基本を置く日本画の精緻な下絵に拡大さる方法で大型ねぷた絵を描く手法は、その後の絵師たちに受け継がれているという。(『ねぷた史誌』より)

新幹線YEAR 2017



津軽ごたく帳 陸奥新報

 G市のK夫婦は人もうらやむ仲の良さ。一粒種のMちゃんも3歳になって、毎日元気に近くの保育園に通っているが、夜はいつも親子3人水入らずの団欒。まだMちゃんが3歳ののでK夫婦の話はMちゃんの前でも相当キワドイところまで行く。「ぱぱ。ここしばらく呼んでけねでばス。たまにはいいでねエの」とママは暗に催促。「うん、最近忙しくて疲れでらはんでな。そんだらパゲ(今晩)こいじゃ」とパパ。するとM坊や「パパ、僕も行ぐ!」



ただ風が吹いているnomi @

 わたしが生を受けたと感じた始めは、平屋建て社宅のどぶを跨いで咲いていた色とりどりの朝顔?を眺めている自分だった。朝霧の中にシャボン玉のような球が、一面に浮かんでいるのも鮮明に覚えている。

 終戦から3年、小学校入学式。記念写真をみると、目立って肥満な子はいなかったが、みんな遊びにたけて、生き生きした表情をしていたと思う。「お嬢ちゃん」と呼ばれるスマートな服を着た可愛い子がいたことも記憶に残っている。1クラス50人超だったろうか。最寄り駅から省線で一駅、茶色の車両に揺られて登校した。母の袖をしっかり掴んで。駅前には人力車と白い湯気を吐き続ける木炭バスが待機していた。ある日クラス全員で駅前の老いた俥夫しゃふから人力車にまつわる話を聞くことができた。

 大正12年の関東大震災前の省線は、隅田川を越えた両国を起点としていた。都心から戻るお客がちんちん電車を利用して、隅田川を渡たり始発駅に着いても、そこから先の便数が極端に少なかった。特に酔客は駅に待機していた人力車で江戸川を越えて乗ってきたという。県境を越えた線路の左側は、松林が豊富な高級邸宅地であった。右側は梨、苺そして田んぼや池が広がっていた。わたしは右側に住んでいた。

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底言

 アジアと欧州を結ぶ新シルクロード経済圏構想「一帯一路」について思いを巡らせてみたい。文化大革命の愚行(?)から半世紀、鉄道網の充実、主要都市間だけでなく、シルクロードも含めた道路網の整備、世界第2位の経済大国になった中国は目覚ましく発展INGしている。
 過疎化に苦しむ日本の地方都市と比較したとき、50万人を超える人口を抱える辺境の都市でも活気にあふれている。出稼ぎ労働者を吸収する州都は数百万人を抱えている。
 中国を俯瞰する計画道路、計画路線、教育・医療の充実、これらを時には強引に牽引して、近代都市を建設していく、そのためには現在の政治体制があっているのかもしれない。国民にとっては何よりも戦争もなく、ゆっくりでも遅滞なく豊かにして行ってくれる体制が一番大事であろう。多少の不満があっても腹を満たし、知識欲を満たし、仲間と共に健康で暮らせること。
 「一帯一路」は中国の豊かさをさらに追及していくための大きな構想であると思いたい。この構想を進めていく中で、一握りの特権階級に支えられた共産主義体制は根本的に変わるかもしれない。その時、少数民族を含めた中国は経済力に合った高度な知的財産を手にしていることだろう。
 日本人はこの構想を傍観していてはならない。謙中や蔑視思想は論外である。大国主義や覇権主義には十分警戒しなくてはならない面もあろう。だが、50年100年先それ以上の滔々とした歴史の流れの中で将来を見つめるとき、中国という広大な面積と人口を有する国家と末永く、両国の若者たちが共に歩む未来志向の思想、構想を持つことが大事なのではないだろうか。


ちょっと余計な一言 

       貧しさゆえに勉学する機会を与えないのは最大の損失です


「五能線一周」




  山菜採りに案内していただいたM新報のS常務とは、文字通りの裸の付き合い、よく飲み、よく唄 い、人生の機微を教えていただいた。
故人となられたS常務に心底より感謝したい。


後期高齢者の仲間入り。心身ともに健康でいられるように、ホームページに挑戦しています。



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